徳岡神泉の「芙蓉」は他の神泉作品と並べてしまうとただ「写実的」というだけで、作品自体の魅力が弱く見えてしまう気がしました。
ですから、単品で飾り、この作品の実力の程を計ってみたいと思いました。
やはり!そうでした(^▽^)
エントランスに飾ってみると、芙蓉のお花がキラキラと光って綺麗です。
芙蓉は夏のお花なので、これからの季節に合っているのかもしれません。
また、さすがに神泉の作品です。存在感があり、空間把握の力がとても強いと感じます。
近代京都画家たちのこれだけの数の作品に囲まれて過ごすのは初めてです。まちがいなく関東画壇の作品に比べて華やかさがあります。その華やかさのなかに少しの寂しさを残し、徳岡神泉の各時代の作品は更に美しさを増しているように思います。その寂しさは、遠い昔に貴族たちが詠んだ和歌の世界にも通じるものがあるようです。華岳もしかり、波光も、平八郎も、麦僊作品もその流れの中に生まれた画家だろうと感じます。
それにしても天候がめちゃくちゃで、朝夕と昼間の寒暖差が激しいですね。
こうして益々季節感が薄れていくのでしょうか。それでも、植物や昆虫などはよくその寒暖の「隙」をぬって茎をのばし花を咲かせたり、孵化して繁殖のお相手をみつけたりするものだと感心しています。まぁ、絵が欲しい!なんて余分なことを考えないので、生命力が旺盛でタイミングというものを本能的に察知できるのかもしれません。いずれにしても「命がけ」
近代京都画壇の一流の画家たちがその作品に挑んだのは、まさにこの「命がけ」ではなかったかと思うのです。命を削るようにとことん無駄を省くこと、そこに生まれる寂しさを美しい色で埋め、命というものの華やかさをのこすこと。
明治時代には喪に服すことが法令に定められていたと聞きます。調べてみると夫の場合、妻は13か月喪に服するとありました。なるほど、この一年、私は一度も外泊する気にならずずっと佐橋と共にありました。13か月は心の再生に必要な時間なのかもしれません。(ちなみに妻の場合、夫は90日喪に服するとありました。不公平と今なら文句が出そうですね)
この日本画の展覧会は佐橋の一周忌に重ねて開かせていただくものですが、奇しくも先ほど書かせていただいたように、この時期は花々が咲き、蝶が次々と舞い、燕が飛び交う季節。展覧会を終えるころには喪明けとして私も新しい行動を起こせるように思います。
徳岡神泉 額 「芙蓉」
紙 共箱 41×51㎝ ☆
「芙蓉」は桐箱に入っています。今回神泉の作品を紹介させていただくのにいくつかの作品に「共板」と書かせていただいていますが、共板には2種類あって、この芙蓉のように桐箱に入っている場合の板、つまり共箱と書かせていただいてもよいものと
以前お軸であった作品を額装に直し、お軸の箱の蓋の部分を板にして残したもの2種類になります。
桐箱の場合、板は中蓋として収納できます。お軸だった際の共板も箱の中に仕舞えるスペースが作ってあります。